三河矢作の浄瑠璃姫伝説

浄瑠璃姫ゆかりの地探訪記

三河のそよ風
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2004/4/27

更新歴06/03/01
豊田市福林寺U


前書き、浄瑠璃姫の生涯については数々の創作で伝説化されており史実としては今後の検証が必要でしょう。

西三河、岡崎を中心に浄瑠璃姫ゆかりの寺院、旧跡が数多くあり、地名にも今にその名をとどめている。

浄瑠璃姫伝説起源の岡崎市矢作周辺やわが街豊田市をたずねてみた。

義経と浄瑠璃姫の遺品 誓願寺十王堂

岡崎市矢作町 旧東海道沿い

長者兼高は十王堂を再建、浄瑠璃姫の木像を作り、義経が浄瑠璃姫に贈った名笛[薄墨]と姫の鏡を安置した

この十王堂の裏手に浄瑠璃姫、兼高長者のお墓があります。

恒例の岡崎家康行列に今年(H16/4/4)から「浄瑠璃姫と義経」が加わり華やかさを増した。

この付近の地図

浄瑠璃姫菩提所 誓願寺

浄瑠璃姫と長者兼高の墓

浄瑠璃姫は年老いて子供のなかった矢作の里の長者兼高夫婦は日頃から信仰していた鳳来寺の薬師瑠璃光如来にお願いして授かった子といわれる。その為、浄瑠璃姫と名付けられたいそう美しく育った。

1174年3月、源義経は、東北地方の藤原秀衛をたよって旅を続ける途中、矢作の里を訪れ、兼高長者の家に宿をとった。長者の家に11日ほど世話になっていたが、ある日一室から静かに聞こえてきた美しい琴の音にひかれ、持っていた笛で吹き合わせたことから、何時しか二人の間に愛がめばえた。しかし、義経は東北に旅立たねばならず、形見として名笛[薄墨]を姫に授け、矢作の里を去った。姫は笛を大切にしていたが義経を想う心は日ごとに募るばかりで、ついに後を追いかけた。しかし、女の足では到底追いつけず、添うに添われぬ恋の悲しみのあまり、菅生川(乙川)に身を投げて短い人生を終えた。時に姫は17歳であったという。兼高長者はその遺体を誓願寺に埋葬した。      案内板

浄瑠璃姫供養塔 岡崎市康生町

岡崎城(岡崎公園入り口)

ここから程近い菅生川(乙川)で浄瑠璃姫の遺体があがりその場所に供養されたが後に岡崎城内に移された。

国道1号線沿い岡崎城大手門近くの交番横に浄瑠璃姫の供養塔があります。

この付近の地図

2004/04/20UP

浄瑠璃姫観月荘遺跡 侍女更科の供養塔 岡崎市十王町

十五夜宝王院跡(明治初期に廃寺)

浄瑠璃姫と侍女十五夜が観月遊宴旧跡

岡崎市役所近く 西本願寺三河別院の敷地内、切立った石積の上にあり道路側からは見上げるような所にありました。

この付近の地図

2004/4/25UP

浄瑠璃渕(じょうるりがぶち)跡の碑 岡崎市吹矢町

岡崎の菅生川(乙川)吹矢橋付近の堤防道路沿いに句碑があります

「散る花に 流れもよどむ 姫の渕」

この付近で浄瑠璃姫が入水したと伝えられています。

昭和50年代の河川改修で当時の遺跡は撤去され当時の面影はない。

写真右奥の建物が成就院です。

この付近の地図

2004/4/25UP

浄瑠璃渕跡付近堤防遊歩道 岡崎市吹矢町

 菅生川(乙川)に架かる吹矢橋、東方を望む

対岸の林の向うは国道1号線

2004/4/25UP

成就院 浄瑠璃姫の墓所 岡崎市吹矢町

一般のお墓の中に浄瑠璃姫と侍女冷泉の墓がありました。

時代が感じられる宝輪塔、中に入れなかったのでフェンス越に撮影しました。

2004/4/25UP

浄瑠璃寺 岡崎市康生通り西

もとは岡崎城の浄瑠璃姫曲輪(ぐるわ)付近にありました。浄瑠璃寺には義経画像、浄瑠璃姫画像と姫守本尊薬師如来が安置されている

2004/9/20UP

この付近の地図

福林寺(阿弥陀院) 豊田市畝部東町川端

豊田市の南端、矢作川のほとりに、このお寺があり、鎌倉時代創建と伝えられています。

本堂脇に兼高長者夫婦の墓があります。

2004/12/21UP

福林寺境内 浄瑠璃姫の親、兼高長者の宝輪塔

中央のくすんだ色の墓が兼高長者夫婦の墓と伝えられています。

2004/12/21UP

 


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